「日本武尊(ヤマトタケル)」伝説 

八幡さま

 

「八幡さま」の呼び名で親しまれている神社です。
先ずは、この神社にまつわる伝説をご紹介します。
日本武尊(ヤマトタケル)が東国征伐したときのことです。走水から船で上総(現在の千葉県)に渡ろうとした時、海上で嵐に襲われますが、このとき日本武尊(ヤマトタケル)の妻である弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に身を投じることで嵐を静めました。このことにより、一行は無事に上総に渡る事ができましたが、日本武尊(ヤマトタケル)はこの地に暫らく留まり弟橘姫(オトタチバナヒメ)のことを思って歌を詠みました。「君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」 この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」という地名となったと伝えられています。八剱八幡神社には、妻を想い、留まった場所として、日本武尊(ヤマトタケル)が祀られています。
社殿は、源頼朝が鎌倉幕府を開府したおりに寄進された、といわれております。

 

源頼朝「お手植えの蘇鉄(そてつ)」

八剱八幡神社

 

昔、源頼朝が君津市草牛(そうぎゅう)の森家で兵馬の疲れを癒し、そこを離れる際、森家へのお礼として、頼朝が蘇鉄を植えたという言い伝えがあります。
大正15年、当時の(株)木更津銀行頭取露崎銀平氏が、森家からこの蘇鉄を譲り受け、八剱八幡神社へ奉納し、現在に至っております。

 

「嶺田楓江寿碑(みねだふうこう じゅひ)」(市指定文化財

八剱八幡神社

 

嶺田楓江は、江戸時代後期の1818年生まれ。儒学や蘭学を学び、各地を遊学しました。1843年には、現在の北海道を踏査して、江戸幕府に屯田制(とんでんせい)や、北方警備の必要性を訴え、「海外新話」を書きました。しかし、治安を乱したとして、江戸から追放され、当時の請西村(現在の木更津市請西)に移り住みました。
後に当地で地元子弟の教育に専念したことから、1881年(明治14年)に長寿とその業績をたたえた寿碑が建立されました。
この碑は、文を重城保が撰し、題字を英国領事館コラウブスが、書を清国の劉世安が記したという、全国でも珍しい碑です。
 

 

「八剱八幡神社の格天井(ごうてんじょう)装飾画」(市指定文化財

八幡さま

 

八剱八幡神社の拝殿の天井には、狩野派の技法で「風景」、「花鳥」、「動物」等の装飾画が162枚描かれており、18世紀の作品と考えられています。
※「格天井(ごうてんじょう)装飾画」は、社務所の都合により、ご覧いただけない場合がございます。あらかじめご了承願います。

 

「五大力船絵馬(ごだいりきせん えま)」(市指定文化財

八剱八幡神社

五大力船は、江戸時代から明治時代にかけて、木更津と江戸の間の輸送を行った大型帆船で、徳川幕府より特権を与えられていました。
絵馬には、当時の東京湾を疾走していた五大力船の姿が、写実的に描かれています。
大きさは、縦51.8cm、横85.4cmで、明治時代初期頃の制作と考えられています。

※「五大力船絵馬」は、社務所の都合により、ご覧いただけない場合がございます。あらかじめご了承願います。

大神輿の渡御(とぎょ) 

八剱八幡神社の御輿

 

八剱八幡神社には、嘉永3年(1850)に創建され、関東三大神輿の一つと言われる、重さ約1.5tの大神輿が奉納されています。
毎年7月の第2土曜と翌日曜日に行われる例大祭では、この大神輿が木更津の町内を渡御(とぎょ)します。2本の本棒のみで神輿に向かい合わせに担ぐ型は独特で、「木更津担ぎ」と言われており、町内を巡幸する様は、まさに圧巻です。

平成23年のお祭りの様子はこちら
平成22年のお祭りの様子はこちら
平成21年のお祭りの様子はこちら

詳細は、八剱八幡神社のホームページをご覧下さい

節分祭

八剱八幡神社

 

毎年2月3日に、本殿で祭典と追儺式(ついなしき)が行われた後、豆まきが行われます。
詳細は、八剱八幡神社のホームページをご覧下さい

 

大祓式(おおはらいしき)

八剱八幡神社

 

毎年、6月30日に「夏越しの大祓式」、12月31日に「年越しの大祓式」が行われます。
当日は、半年の間に身に付いた罪やけがれなどを除き去る為、直径3mの「茅の輪(ちのわ)」をくぐります。
詳細は、八剱八幡神社のホームページをご覧下さい

 

八剱八幡神社の住所等

住所

木更津市富士見1-6-15

電話番号

0438-23-8881

ホームページ

八剱八幡神社のホームページ

 

クイズ

問題

日本武尊が祀られている神社は「八剱八幡神社」ですが、その妻である弟橘姫が祀られている神社は、市内の何神社?

正解はこちら

 

リンク 

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